昭和48年11月1日 月次祭
中村良一
今朝からの御理解に、一粒万倍と言おうが、一人がおかげを受けたために、千人も万人もおかげを受けるようになる。人の手本になるような信心をせよという御理解です。一粒万倍と言おうが、一人がおかげを受けたために、千人も万人もおかげを受けることになる。人の手本になるような信心をせよ。一粒万倍のおかげと、ね。ところが、そういう、一粒万倍どころか、信心は、一生続けさせて頂いたけれども、結局は、自分一人、まぁ、いうなら、自分一家、と言ったような事であったり、おかげのほうも、やはり、去年よりも今年、今年よりも来年、それこそ、十年後には、見違えるほどしのといった様な、家の上にも繁盛の大みかげを受けていかなければ、一粒万倍のおかげとは言えない。そういう、一粒万倍のおかげの受けられるような、または、人の手本になるような信心とは、どういうことであろう。何十年、信心を続けておるけれども、それが、目を切らないとするなら、それは、しいら信心だと悟らなければならない。という様な御理解でした。どうでしょうか皆さん。毎日、お参りをしとりますという事じゃないです。金光教の信心は、どういう信心だという事を、なら、教学的に勉強して分かったと言うだけじゃいけんのです。そら、一心に、御祈念力を持っておる、ね。おかげも頂いておる。けれども、それがです、一粒万倍のおかげになっていかんなら、それは、まぁだ、人の手本になるような信心をしてないからだという事です。ね。一粒万倍のおかげと。そういうおかげを頂かせて貰う。そういうためにもならせて頂こうという様な、おかげをいただくと言う事がです、ね。天地金乃神様の願いであり、そのために、教祖生神金光大神は、この世にご出現あそばされたと言うても良いのです。ただ、一生、おかげを頂いた。親父の時にはこうじゃった。もう、息子の時には、信心も、その毛も無いといった様なのが多いです。結局、通俗的な、ただ、ご利益信心、おかげ信心に留まっておるから、それが、子にも孫にも伝わらない。そういう、一粒万倍のおかげになっていかない。ね。
一粒万倍に、ね。一つを蒔いたら、それが、ね。千にも万にもなると言う。そりゃ、そうでしょう。一粒のモミを蒔いたら、あの一穂が出来ます。今度は、その一穂を蒔いたら、それが、私は、よく分からんけれども、まぁ、一畝なら、一畝という所に、一杯、ね。段々、それが、一反、二反の田んぼにち言う事になってまいりますと、もうそれこそ、一粒万倍という事です。もう、教祖の神様は、天地の親神様は、うだごつばっかり言うてある。いっちょん、そんなおかげは頂かれんじゃないかという事は無い。決して、神様に嘘はない。ただ、こちらに、その信心が出来んからだ。ね。皆さん、どうでも、その、一粒万倍のおかげ。それには人の手本になるような信心をさせていただく。あぁ、この人は、感心なこっじゃある。毎朝、毎朝参ってござるがと。これでは手本にはならんのです。そうにゃ、参りござるばってん、いっちょん、おかげ頂ござる風じゃなかち言うなら、もう、かえって、可笑しかじゃないですか。ね。ほらもう、本当に感心なことじゃある、毎日、毎日、一家を上げて参ってござるが、なるほど、家はもう、こっとりとも言いよる風じゃない。お店のほうも、どんどん繁盛しよる。金光様の教えちゃ、素晴らしかじゃろうという事を、聞きに伝えて、おかげを頂いてくる人達が多くなっていくような信心をしなければいけない。それではね、それには、どうでも、私共がです、素直に、ね。只今頂いておる信心が嘘ではない。けれども、より本当な事を聞いたら、それに、すっと入っていけれる素直さが大事だと思うです。ね。どうも、自分の信心な我流になる。私は、これで、おかげいただいとるから。なるほど、手元、足元の所には、おかげを受けておろうけれども、人の手本になるような信心になっていない。人の手本になるような信心をさせて頂くという事なんです。ね。
それにはね、もう、限りなく、信心をです。いわゆる、前向きの姿勢をもって、はぁ、本当と思うておった事が、より本当な事が、聞き分からせていただいたならば、その本当な事へ、すっとこう、入っていくという信心。ね。自分の流儀じゃから、これはと言ったようなものではなく。それは、自分の流儀を持つことは良いでしょう。そら、百人百様、それがあって良いです。赤もあっても良し、白もあって良い。けれども、それより、より本当な事が頂けれるとするならです。ね。また、本当な事であるという事を、教えていただいたら、それに神習うていくという事が、私は信心。それには、どうでも、素直心が必要です。素直に悟っていく。そして、それを、行の上に、すっと、こう現していく。本当にですね、この神様は、生きた神様ですよ。
私は、今日から、十一月の一日から、親教会の、日々のお届けを、倍額にさせて頂いた。そしたら、間もなく、私が、あぁ、間もなくと言うが、午後の時に、あの、書留と手紙が来ておった。それはもう、何時も、東京と神戸ですから、何時もあの、お届けをし、お礼のお手紙が来、何時もお初穂は、そういう書留で送ってくるんです。ね。だから、何時も決まってるんです、金額が。ね。ところが、二人が二人とも、倍額じゃった。はぁ、もう本当に、もう、神様、こうして、印をね、あの、受けてくださるという事が、何と言う素晴らしいことかと、私は思うて、今日、改めてお礼をさせて頂いた。ね。天地の親神様と言うお方は、そういう、言うならば、私の心が、生きた種であり、ね。生きた心であり、生きた信心であり、それが本当のことであれば、それにもう、打てば響くように、おかげを下さるのが神様です。ね。
今朝の御祈念の時に、その事を、色々頂いて、倍額のお供えをさせて頂くことを、神様から頂いて、その事がもう、嬉しゅうして嬉しゅうしてたまらじゃった。また、これが倍額になるのは、いつか分からないけれどもです。いつも、それを願っておるのである。ね。いつも願っておるのです。ね。
今度、親教会の御造営が、まぁ、これは親先生だけのものですけれども、神様にお届けがって、ご発願をなさった。それで、信者総代一同が、それに、まぁ、着いていかなければならない。出社であるところの合楽も、勿論、あのお祝詞を聞かせていただいた翌日から、ね。それこそ、それをね、はぁ、親先生が、いよいよ、思い立ちなさった。親先生が、いよいよ、本気で神様にお届けをなさった。これは、私も、じっとしちゃおられんと言うて、帰ってきたら、もう、ここの農協からですね。是非、こういう預金が出来たから、その、積立預金にかたってくれと言うて来ました。もう、一も二も無しに、かたらせて頂いた。御造営の事のために。ね。まぁ、それは、しかし、まぁ、五百万か、一千万ぐらいな、その小さい金額ですから、ね。けども、まぁ、大体、そのくらいぐらいに思いよった。そしたら、ちょうど、善導寺の霊祭を終えて帰ってきてからです。その話が、たまたま、秋永先生を中心に、四五人で、お話をしておる。親先生、あーたが、そげなこつ言う、今、そげなこつしなさるなら、やっぱ、六千万か、八千万かかるですよち言う。そしたら、私は、心の中にですね。ほう、そら余計おかげ頂くたいち、私は思いましたよ。本当に。はっはは、ね。神様から、例えば、今、千円のお供えをしておるのが、二千円、ね。今、三千円のお供えをしてるのが、さぁ、今日からは、倍の六千円ぞと頂いた時にです。私の心の中に、本当に、嬉しいものを感じたです。ね。そら、ちった、多すぎはせんじゃか、神様、ほら、六千万も、八千万も、私段なら、二の足を踏むち、もう、絶対ない。それが、金額が大きければ大きいだけ、それだけの余分の力を頂かせていただいて、今朝の御祈念をさせて頂いて、ね。それこそ、私のような、信心も出来ん者がです、ね。いわば、全国津々浦々に、合楽教会ありという事を知らんものは無い、金光様のご信心する者では。
私が、今度、東京の銀座教会にやらせて頂いたら、私は、知らなかったけれども、私が、お初穂お供えしていただいて、合楽の大坪て書いてあった。それで、御結界に座ってあった先生が、もう、ちんちろまいさっしゃった。はぁ、合楽の先生が見えとるちいうとこで。と言うて、あの、秋永先生が言うておられました。と言う位にです。合楽という教会が、ほんなら、全国の津々、そりゃ、良い意味、悪い意味合いで、なかなか、悪名も高いほうですから。で、悪名のほうで鳴り響いたのかも分かりませんけれども、ね。
昨日、一昨日でした。吉井の熊谷さんが、朝一番のバスで参って見える。初めての運転手さんじゃった。小母しゃま、あんた、よう、あの、合楽金光様にお参りしよりなさるが、私は、初めてに、この朝の一番に乗ったのですけれど、とにかく、合楽の金光様ちゃ、日本一の金光様ですぎなのち。あーた、あそこのお嬢さんな、あーた、御本部の金光様の奥さんになってあるげな。はっははは、もう、話しちゃ、そういう様なもんですから。んにゃ、そらぁ、九州には、まぁだ、幾つでん、大きな教会はあるばってん。まぁ、ほんなこつなら、合楽が日本一でしょうねち言うて、その話をしよったら、もう、ここまで、覚えんごつなって、その、ここの前で、あら、ここが合楽教会と言うて、降ろして頂いたとこう言う。それは、良いこと、悪いことにつけてです。私共が、今度、お伊勢参宮させて貰うて、東京行きしたことが、ね。もう、御本部に知れ渡ってる。私は、それを、今度、行徳先生から、今度のお祭りでね、ご本部から帰って来られた。そして、あんたどんな、伊勢参宮したげなのうち。どうして知ってあるじゃろうかと、私は思うた。ははぁ、今言う、銀座教会にお参りしたけん、それからこう、引いてじゃろうか。実さんがお参りしたけん、どうかじゃろうか。そら分からんにしても、そういう風にです。私は、やはり、神様だと思うです。ね。そして私が、中心の私が思うのです。信心も出来んのに、どうして、このようなおかげが受けられるであろうかと。
今日なんか、私が、四時半に立たせて頂くのに、ちょうど、五百名に、ちょっと切れるくらいのお届けがあっておりました。今日のお供えは、まぁだ、大盛りの方は、半分しか出しとらんです。ね。信心も出来んのに、どうして、本当に、おかげのほうだけでは、一粒万倍、私が、一人おかげを頂いたために、千人も万人もの者が、おかげ頂くようになって、それだけではない。私自身もです。この様におかげを受けておるという事は、どうしたことであろうか。どうしてだろうかという事。ね。それが、たった、一粒ではあってもです。その一粒が、本当なものだから、目を切ったからなんです。お互いが、何十年、信心させて頂いておるようであっても、それが、本当なもんでない証拠に、ただ、その日、その日のおかげは受けておるにしましても、一粒万倍のおかげにならないと言うのは。ね。いわば、しいら信心。しいらと言うのは、もみの中に実が入っていないのをしいらと言う。しいらば、幾ら蒔いたっちゃ、一粒万倍にはなりはしません。ね。一粒万倍のおかげを頂く。ね。それには、私がです。何時の場合であっても、信心が(前に)。もう、本当の事という事があったら、それにもう、すぐ突入していく。ね。そして、そこから、また、次の本当へ、次の本当へと、いうならば、真理の追究とでも申しましょうか。本当のことを追求していく。これは、まぁだ、信心が足りんのだと分かったら、そこからまた、次の信心を工夫していくと言うこと。ね。人の手本の信心に、・・・。
先日、昨日でした。三十一日の御礼信話会が、夜の御祈念の後に、一時間、これは一時間、一月おかげを受けた、そのおかげを受けたことの生粋を、一人ひとりが発表する。昨日は、ちょうど、三十名の方達が発表した。ちょうど、一時間かかった。ね。そこで、私もお話をした事でしたけれども。私が、昨日の朝、お夢を頂いた。椛目の、元のお広前の前に駐車場があった。駐車場の、あそこの角の所に、電柱が立って、それにもう、どれだけ大きい電気だろうかという様な、こう、投光器ですね、いわゆる、光が、ぱーっと、こう、原口つぁんのところの方の前に、ばーっと、その、光がしておる。椛目のご信者さん方が、それを立てたり、電気をつける準備をして、電気が点いた。ところが、原口つぁん方から出てきてから、もう、こげなもん点けち貰うなら、まばゆうして応えんち言うてから、口上が出ておるところであった。そしたら、今度、後ろのほうのあの、広島さんち言う、原口つぁんの従兄弟さんにあたります。両方とも、信心は、全然ありません。その広島さんが見えてから、こっちのほうが、こげん明るうなったけんで、こっちのほうは、暗うなったち言うちから、また、口上言うて来よりなさると。あんなもんですよね。大きな電球が、ぱーっと来ると、それこそ、今まで、薄暗かったつが、やっぱ、まばゆいぐらいにある。なるほど、こちらのほうへ、光が、こうするなら、こちらの後ろのほうは、それこそ、返って、その闇を濃ゆうするような感じがするて。まぁ、合楽の、今の信心は、そういうものじゃなかろうか。一方では、その光に潤うて、有難い有難いと言いよるけれども、一方では、全貌的な、いわば、声を聞いたり、または、一方には、かえって、困ると言われるような、事態の所ではなかろうか。これが、それこそ、太陽の光のように、ね。それこそ、四方八方に、その光が輝くようになった時に、本当なおかげだと、私は、・・・。いわゆる、和賀心時代を作ると言うような運動が、段々、広がっていくようなおかげを頂くのには、ここんところのおかげを頂かねばならない。それでは、ほんなら、今の合楽の、今の私の信心ではいけない。ははぁ、神様が、親教会へのお初穂を、これから、倍額と頂いたことは、信心もまた、倍額のおかげを頂かなければならないな、そこから、また、倍額の、一粒万倍のおかげになってくるんだなと、ね。何か知らん、心が、朝から、勇みに勇んでおるような気がする。ね。信心が、一段と進んでまいります。進もうという気になると、勇んでくる。ね。
その、昨日の、一人ひとりの感話の中に、もう、みんな、ぎりぎりの一言ですから、一生懸命の所をお話なさる。なかで、昨日、ちょうど、幹三郎が話を致しておりました。昨日は、二千円貰って、久留米に散髪に行った。ところがその、散髪に行ったげなら、あの、なんか、何ち言うですかね、パーマんごたるとばしとる、パーマでしょう、に、したが、持てるから良いですよち。ほんなら、して下さいち言うた。ところが、何と、その幾らですかち言うたら、千九百五十円ち言わっしゃった。もう、びっくりしてしもうてからですね。五十円じゃ、その帰られんのです。バス代が無い。しかし、もう、よう、二千円、まぁ、パーマ代だけはあった。後から聞かせて頂いたら、やっぱ、あれば掛けとると三ヶ月も持てる。そんなら、やっぱ、高いものでしょうけれども、まぁ、そんなに高いとは思わなかった。彼が、昨日、言うんです。今日は散髪をしたら、今日は、パチンコば、いっちょ、まぁ、いっちょ、そてみろうかと思うた。パチンコどんして帰ろうと思いよった。ところが、パチンコ段じゃろかい、その、もうあーた、二千、千九百五十円とられたげな。ほえからもう、バス代が無いけんち思うてから、洋服を、こうやって探したところが、ちょうどその、ズボンのポケットに、合楽まで、帰るバス賃だけあった。もう、これだけありゃ良かけんで、まぁ、折角、来たけんで、デパートなっと、いっちょ見て行こうち言うて、デパート回りよった。したら、熊谷の小母しゃまと、ぱったり会うちから、沢山、お土産のお饅頭を頂いて帰って来たと、こう言うのです。それから、私が、はぁ、本当におかげ頂いたねと、私が申しましたら、私はね、その事をおかげとは思わなかったけれどもです、ね。本当に、神様が、如何に、パチンコをお嫌いになるかという事を悟らせて貰うた事が有難かったち、昨日、発表しました。ね。たまたま、今日は、久留米に、二千円貰うて、頭つみに行った。五百円か、千円かじゃろう。そこで、あとの千円な、パチンコどんしてから、帰ろうと思わせていただいた。ところが、千九百五十円取られた。ね。まぁ、そればってん、ちょうど、それだけの金額が、ポケットの中に、帰りのバス賃が入っておったという事は、はぁ、おかげ頂いた、神様の、一分一厘間違いにない働きは有難いねと、こう私が言うた。なるほど、それも有難いばってん、僕が有難かと思うたのは、そん時、素直にです、ね。いかに神様が、パチンコを、僕がすることを嫌いなさるかという事を分からせて頂いたのが有難かった。もし、信心が無かったなら、折角、今日は、久留米まで出て行ったつに、遊びも出来じゃったと言うて、不平不満を言うて帰っただろう。けれども、そこを分からせていただいて帰ったことが、僕は有難かったと言う。私は、こういう信心で、素直な信心をです。神様が、願われておられる、求めておられる私共に、それを、そうと悟って、次の信心に、飛躍していくと言うところにです、ね。いよいよ、神様を信じて疑わない体験も、または、信じて疑わない、疑わんで済む、ね。先ほど、三橋先生が、お話しておりました様に、ね。それこそ、どのような場合であっても、船もろともという気になれば、楽じゃという事がいただける。これはね、神様を信じておるからであります。船もろともという気になれるのです。親先生任せという事は、もう、親先生を信じておるから、親先生任せになれるのです。ね。それに、信じもきらなきゃ、分かってもおらずにです。もう、船もろともという気になれば良かち言うのは、そら、糞度胸というものじゃ。ね。糞度胸では、おかげは受けられん、徳は受けられない。神様を信じて、いよいよのときに、直面した時に、ままよという心、ままよとは、死んでもままよの事ぞと。という様な信心の度胸が、そこに力がつく。そこにお徳が受けられる。ね。
私が、様々な信心をさせて頂いて、おかげを受けられなかった時にです、ね。それこそ、本当に、手本になるような信心をさせて頂きたい。親先生に、お取次ぎを頂きまして、どうぞ、天地の親神様の、第一の忠義者にお取立て下さいと願った。ね。これは、私の子供の時に、これも、昨日、あの、御直会の時に、善導寺で。岸先生が、一杯機嫌で、その話をするんです。ね。私が、あぁ、あんたがあれは、もう、十三か四ぐらいの時分じゃなかっただろうかと言うて、計算してから話した、ね。親先生、何人ものことは要りません。本当の信者を、一人、育ててくださいと言うて、私が、先生と話しよるのを、この大坪さんが聞いて、ね。その本当な信者に、私がなろうと思うて、感動したと言う話をです。そういうものが、こう、持ち続けられてきて、そして、おかげを受けたり、受けなかったり、または、いよいよぎりぎりの、言うなら、裸一貫同様で、引き上げて帰って来なければならない様な事になって。いよいよ、今までの信心ではいけないと分かって、より本当な信心に向かわせて頂く時の心構えというものがです、ね。神様の、一番の忠義者に取り立てて頂きたい。人の手本になるような信心がさせて頂きたい。そのためには、私の身で受けられることならば、または、心を削って出来ることであるならば。身を削り、心を削りして、それを黙って受けさせて頂きますと。これだけの信心しか出来てない、いうなら。ね。神様が求めなさる。自分からでは、なかなか出来んけれども、神様が求めなさる修行ならば、それを、甘んじて受けると言うか、有難く受けると言うか。元気な心で受けると言う、この生き方で行った。この一粒が、今日の合楽であると、私は思うです。ね。だから、皆さんもです、人の手本になるような信心をさせてください。そのための修行は、言うならば、いといませんという様な信心がなわれなければいけない。どうぞ、これだけのおかげを下さい。そのためには、どげな修行もしますというような事では、おかげが、願いが小さい。それでは、例えば、どんな良い信心をしよっても、それでは、しいら信心ですから、一粒万倍のおかげにはならんという事です。このことには、まぁ、限りないお話になってまいりましょう、ね。一粒万倍になるようなおかげの元と言うのは。けれども、そこに、一番必要なのはです。現在頂いておる信心より、より本当な信心へ、もう一歩、前進させていただかなければならない。
今日は、パチンコして帰ろうと思ったら、いわば、散髪料で、それを全部取られてしまった時にです。はぁ、神様は、私がパチンコすることを、お嫌いになるなと思うた時に、もう、パチンコはするまいと思う。そういう素直な心で、それが受けられた事が有難かった、おかげであったと言う修行な、いうなら信心。こら、大変幼稚な、言うならば、まだ、二十歳そこそこの、若い者の信心ですけれどもね。そういう受け方なんです。ね。そういう信心なんです。ね。だから、それが、幾ら幼稚であっても、それが育っていくところにです。いわば、本当な信心がです、頂けてくるようになると、こう思うのです。ね。
十一月は、私は今月、今朝から、私は考え続けておるように、いよいよ、ね。人の手本になるような信心。一粒万倍であるならばです。それこそ、億万倍にもなるような、おかげを頂かなければならない。ね。それには、自分の信心も、倍額にしていかなければならない。自分の、言うならば、神恩報謝の現れであるところのお供えも、倍額にして行こう。それが楽しい、それが有難いという信心なのです。ね。そういう信心をです。いよいよ、皆さん、身に付けていかれて、皆さんの心の上にも、家庭の上にも、なるほど、一粒万倍のおかげを現していく、ね。そこに、人の手本になるような、自分の周辺に、いよいよ、万遍なしに、いわゆる、百万燭光の電気が輝くようなです、ね。おかげを現していく。そういうおかげが受けられる。そういう信心は、なかなか出来ん。けれども、そういう願いを持つと言うこと。ほんなら、私の信心が出来たから、現在、一粒万倍のおかげを受けておるというのじゃない。出来んけれどもです、ね。どこかは、ほんなものが一つはある。それが、段々、育っていくところからです、ね。いうならば、人もたまがるような、おかげになってくると、私は思うです。ね。どうぞ一つ、人の手本になるような信心を目指してください。本当に、一粒万倍のおかげだな、なるほどそうだなと思われるようなおかげを頂いてください。ね。合楽に、折角、ご神縁を頂いたのですから、そういう信心に、一つ、向きを、本気で変えて下さい。どうぞ。